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おんな城主直虎』で六角精児さんが演じているのが、ノブこと本多正信です!

徳川家康の家臣ですが、なんだか一風変わった雰囲気です。

 

過去に家康を裏切る行為をしたと言われていますが、何故、再び家臣となって、戻る事が出来たのでしょうか?

怪しい雰囲気が漂う人物に見えてしまうんですけどねー。。。

 

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目次

ノブこと本多正信とは

 

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%AD%A3%E4%BF%A1

 

本多正信は、天文7年(1538年)に本多俊正の次男として生まれました。

正信は、鷹狩りが好きだった家康の鷹匠として仕えていました。

 

家康の4つ年上だった正信は、性格的に特に目立ったところがあるという訳ではありませんでした。

目立ったところがないというのは、激しくもなければ、穏やか過ぎる訳でもなく、ごく普通。

 

表向きはごく普通だけど、知性や閃きがあり、内なる魅力が大きい武将だったといいます。

ただ、武功系に関しては、得意分野ではなかった様ですから、知性で乗り切る武将だったようですね。

 

1560年の桶狭間の戦いでは、家康と共に、今川義元の命にて参戦しています。

そして家康は、桶狭間の戦いで惨敗した今川義元から離れ、三河に戻る事に成功します。

 

もちろん正信も、家康と共に三河に戻る事になりました。

しかし、その3年後に正信は、家康から離れる事になるのです。

 

鷹匠として家康に仕えていた正信でしたが、何故家康から離れていったのでしょうか?

 

本多正信(ノブ)は徳川家康を裏切った

 

なんで家康を裏切ったの

 

さて、その桶狭間の戦いから3年後に起こったのが『三河一向一揆』なんですね。

この三河一向一揆ですが、正信は、現在の安城市野寺の本證寺、当時十代・空誓が中心となった一向宗側に加わり、領主の徳川家康と戦う事になりました。

 

正信は一向宗側に入る事により、徳川家康に背く形となったという事です。

この分裂は、宗教による理由が主だとされていますが、宗教が理由であれ、家康家臣団の内紛と捉える方が自然でしょう。

 

結局は、一揆衆が家康に鎮圧される事になります。

そうなると、もちろん正信にも何らかのお咎めがありますよね。

 

そうして正信は、三河を追放される。といった事になります。

追放された正信は、浪人として諸国を流浪し始めます。

 

この浪人時代は、どの様な生活だったのかは詳しくは解っていません。

しかし、勝手に思ってしまうのは、『気楽に旅が出来てサイコー!』と思ってたのでは?なんて個人的には思うんですよ。

 

この時代の武将の気持ちなんて解りませんけど、人間、自由に生きる事が楽しいと感じるんじゃないかな?と単純に思ってしまうんですけどねー。。。

 

ただ、お金とかどうしてたん?って事は、一番気になるところではありますが。^^;

あと、なぜ正信は一揆衆として、家康側と対抗したのか??

 

そこが知りたいところではあります。

本能寺の変もそうですが、謀反や、主君に反する行動を起こす時は、かなり慎重に事をすすめますしね。

 

その心情が表に出ない事がほとんどだというのは、納得出来ます。

しかし、後に歴史を知る者としては、心情や理由なんかが一番興味深く、知りたい部分なんですけどね。。。

 

そういった部分も頭に入れながら、大河ドラマ『おんな城主直虎』のノブを見るのも面白いと思いますよ。

しかし、草履番はしてなかったんちゃうかな。。。

 

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で、家康はホンマに本多正信(ノブ)を許したの?

 

なんで家康は本多正信を

 

 

さて、るろうに正信となってからですが、その後、再び家康の元に戻る事になるんです。

しかし、帰参したのがいつなのかという事は、はっきり解っていません。

 

慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは、正信が徳川軍・徳川秀忠の参謀となっていたという事は解っています。

本能寺の変の後、家康が伊賀超えを決行するのですが、その伊賀超えに正信が付き添っていたという話もあり、そうなると本能寺の変辺りに帰参したのか?という事も考えられます。

 

しかし、関ヶ原の戦いと本能寺の変は、18年もの期間があるので、この18年の間すらはっきりしていないくらいですからねー。

正信の流浪時代って、ホント謎ですよね。

 

家康が、一度自分の元から離れてしまった人間を、再び家臣として迎え入れる決断をした理由は何だったのでしょう?

 

帰参した時期も解りませんので、きっかけとなった出来事も解りません。

しかしどうやら大久保忠世からのとりなしによって、帰参したのではないかと言われています。

 

どういう経緯で帰参したのか定かではないですが、再び家康に仕えてからの、正信の功績は素晴らしいものでした。

 

特に慶長6年(1601年)からは、家康が将軍職に就任する為に、朝廷との交渉に尽力したと言われています。

本多正信は、知性高く、その助言については家康もかなり評価していました。

 

石田三成が加藤嘉明らに襲撃され、家康を頼った時に、正信は深夜に家康の下を訪れ、『三成をどうなさります?』と質問したそうです。

家康の『今、考えておる所よ』と言った言葉だけで、正信は家康の考えを全て理解したそうです。

 

そういった逸話からも納得するのが、家康自身、正信の事を『』だと言っていたそうで、自分の寝室に帯刀をしたまま入っていい、とまでされていたそうです。

 

家康が隠居して、秀忠が第2代将軍になってからは、正信が秀忠付の老中になっています。

そして、元和2年(1616年)、徳川家康が死去した49日後に、本多正信も死去しました。

 

正信が、こんなに近い日で亡くなっている事を考えると、とことん家康を慕い、追いかけていたんだなぁと思ってしまいます。

ま、家康も正信も、お互い70代ですからね。

 

しかし、その時代にしては長生きですよね。

そう思うと、武闘より知性なのかな?と思ったりします。。。

 

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