おんな城主直虎』で、菜々緒さんが演じる『瀬名(築山殿)』と、阿部サダヲさんが演じる『松平元康(徳川家康)』が個人的にとても気になります。

今川に人質となった松平元康を阿部サダヲさんが演じますが、やはりなんだか憎めないキャラって感じで面白いですね。^^;

さて、そもそも松平元康って、なんで今川の人質だったのか?

そして瀬名(せな)は見捨てられるのか?

そうして、今川を裏切る事になるまでのお話を紐解いていきたいと思います。

 

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目次

松平元康(徳川家康)は人質から出世街道へ!

 

 

阿部サダヲさん演じる松平元康の家系は、三河国(現在の愛知県東部)の豪族の松平氏で、元康は岡崎城で生まれました。

 

松平氏、第8代当主である『松平広忠』の嫡男で、幼名は『竹千代』といいます。

当時、松平氏は弱体化している状態でした。

 

そんな中、松平広忠は織田信長の父である『織田信秀』に攻め込まれる事に恐れ、今川義元に助勢してもらう様に頼みます。

 

その援軍を出す条件として人質を要求された松平広忠は、嫡男の竹千代を人質に出す事に了解しました。

 

しかし、駿府へ4歳の竹千代を向かわせる途中、敵方に寝返った戸田康光によって、織田信秀に売られてしまいます。

 

そうして竹千代は、4歳~8歳まで織田の人質となって暮らしていたのです。

 

竹千代が織田に捕まってから4年後、今川義元は太原雪斎の助言により、織田信秀の側室の子である『織田信広』を生け捕りする事に成功します。

 

そして、竹千代と人質交換するのです。

 

そうして竹千代は8歳の時に今川の人質という形で駿府で暮らす事になります。

そう思うと、竹千代は幼い頃から大変な苦労をしたんだなぁと思いますね。

 

でも、その経験が後に名を残す戦国大名となった理由なのかもしれません。

 

幼い頃から戦に関わり、大人達の駆け引きを冷静に判断出来る能力を兼ね備えたんだろうと推測します。

 

おんな城主直虎』でも尾上松也さん演じる今川氏真が元康に、『戦がうまい。』と褒めるシーンがあります。

 

もしかすると、そういった人質としてたらい回しにされた経験を言ってるのかもしれませんね。

 

松平元康(徳川家康)の正室、瀬名(築山殿)との出会い

 

 

さて、その松平元康(後の徳川家康)の妻となったのが、菜々緒さん演じる瀬名(後の築山殿)です。

 

一説には、元康が瀬名に恋をしていた。とも言われています。

 

人質として暮らしていた今川で瀬名と出会い、結果、今川義元のすすめで瀬名と結婚しましたが、もし初恋だったとするならば、かなり嬉しかったんじゃないでしょうか?

 

それに、今川義元の妹の子ですから。

(妹といっても養女の佐名ですが。。。)

 

それは元康にとって、人質の身でありながら今川の姫と結婚出来る!『やったぜ!』的な思いもあったんじゃないでしょうか?

 

そして、元康と瀬名の間に長男が生まれます。

しかし、幸せに暮らしていたと思われた頃、『桶狭間の戦い』によって、瀬名と子供に不運が襲いかかるのです。

 

元康は、当主である今川義元が討たれた事を知り、その足で18人の家来と共に岡崎へ逃げました。

そして、先祖の墓前で自害しようとするのですが、助言等もあり、結局は思いとどまりまる事になりました。

 

そうして、岡崎城の城主となった元康でしたが、妻子を今川に置いたままです。

 

さて、それから元康は妻子を助ける為の策を考えたのでしょう。

元康は、三河国内の鵜殿長照(うどのながてる)がいた上ノ郷城を攻め、長照を生け捕りにしました。

 

鵜殿長照の父は、鵜殿長持(うどのながもち)、母は今川義元の妹です。

となると、鵜殿長照は今川義元の甥という事になります。

 

その鵜殿長照を生け捕りにし、元康は瀬名と子供達を人質交換する様、要求しました。

実際に瀬名は、人質の期間に長女を産んでいましたので、3人を人質交換する事になるのです。

 

その時期、3人同時に人質交換に応じたのか、瀬名だけ後の解放だったのかは定かではありませんが、子供達は岡崎城に戻る事が出来ました。

 

そして、瀬名だけは岡崎城郊外にある、『築山』で暮らす事になります。

その事を考えてみると、子供達だけ先に人質交換されたのかもしれませんね。

 

瀬名は、築山に住んだ事が由来で、『築山殿』や『築山御前』と呼ばれる様になったそうです。

 

しかし、松平元康が桶狭間の戦いで、今川が敗れた事を知り、岡崎へ戻った事を知った瀬名は、その時どんな気持ちだったんでしょうね。

 

戦国時代ですからね。。。

やはり見捨てられると思ったんではないでしょうか?

 

最初は瀬名が、上から目線でいられる立場だったのが、逆転した様な感じですよね。

 

そして今川と完全に離別した元康は、今川からもらった『』という字を捨て、『家康』と改名します。

 

さて、それからの家康と築山殿の関係はどうなったんでしょうか?

 

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松平元康(徳川家康)と瀬名(築山殿)のその後は?

 

松平元康と瀬名のその後は

 

無事、今川から逃れる事が出来た瀬名と子供達ですが、岡崎での暮らしは順風満帆だった訳では無かった様です。

 

特に瀬名ですが、父と母は今川氏真によって自害させられています。

 

瀬名の夫が、今川を裏切った事が理由だと言われていますが、義理の両親までも自害させるとは、今川氏真もよほど怒り心頭だったんでしょうね。

 

そして、瀬名ですが岡崎城では暮らさず、郊外の『築山』で暮らしていました。

暮らしているといっても、軟禁状態だったといいます。

 

瀬名が何故、築山で軟禁状態だったのかは、諸説ありますので省略させて頂きます。

 

そして、家康は嫡男である信康に岡崎城を譲ります。

岡崎城の城主となった信康は、母である瀬名を呼び寄せ、岡崎城に住まわせます。

 

ですが、岡崎城での暮らしは嫁姑問題で、あまり仲が良い雰囲気では無かった様です。

 

肝心の夫である家康は岡崎城にはいません。

 

それと瀬名は、息子・信康の妻である『徳姫』との折り合いが悪かったそうです。

 

徳姫は織田信長の長女であり、元々は今川寄りの考えだった瀬名は、息子の嫁を良いイメージとして受け入れられなかったのかもしれません。

 

もしくは、徳姫の方が瀬名を毛嫌いしていたのかもしれませんが、とにかく2人は仲が悪かった様ですね。

 

そんな徳姫がある日、父である織田信長に、瀬名と夫である信康に謀反の疑いがあると伝えるのです。

 

他にも訴状はあり、全部で12ヶ条あったそうです。

 

その中には、自分が男の子を産まなかった事を瀬名に責められ、信康に側室を取らせる事となった。といった内容等もあったそうです。

 

う~ん、かなり嫁・姑問題が白熱してたんやね。って感じです。

 

しかし、ムカついたからといって夫と姑を殺そうとしたといっても過言ではない訴状じゃありませんか!

 

恐ろしや~・・・・^^;

 

信長は、『信康と瀬名は武田と手を組み、信長と家康を殺そうとしている。』といった内容に対して、やはり見過ごす事は出来なかったんでしょう。

 

もちろん信長は激怒し、家康に命じて信康と瀬名を処刑させるのです。

そうして家康は、人質交換までして命を救った妻子を仕方なく殺したそうです。

 

なんだか、恐ろしい話ですよね。

戦国時代に生まれんで良かったわ。。。と、ただただ思うだけです。ハイ。

 

徳川信康【おんな城主直虎】では母の築山殿(瀬名)と嫁(徳姫)の仲は大丈夫?

 

しかし、大河ドラマ『おんな城主直虎』では、築山殿がどの様に描かれるのか・・・?

大河ドラマの中では、瀬名と家康は、すごく良い雰囲気です。

 

なので、築山殿と呼ばれてしまう原因の、『築山』で暮らしている設定にはしないのでは?

と思ったりします。

 

個人的には、家康と瀬名は仲睦まじく暮らして欲しいなぁと思いますねー。

 

その後、徳川家康は井伊直政を家臣にします。その井伊直政の記事はこちらです。 ↓

菅田将暉大河ドラマ【おんな城主直虎】の井伊直政ってどんな人物?

 

そして、阿部サダヲさんが演じる徳川家康についての記事はこちらです。 ↓

【おんな城主直虎】阿部サダヲ演じる徳川家康は井伊家の味方なの?